【かっとび一斗】滝脇の語る里美伊緒の天才性
こんにちは。令和の世にしてかっとび一斗に魂持っていかれた人です。
今回は滝脇と里美伊緒の天才性について語りたかったんです。
作品を読めばすぐさま、そして嫌というほどわかることですが里美伊緒は天才です。
ただその天才性については、意外と作中で多く語られていないような気もしなくもないような。ですが、そんな中で一番多くを語っているのはおそらく滝脇です。
ということで主に25巻で滝脇が語ってくれている里美伊緒観と、あの世界の天才の仕組みを紐解けたらと思います。
大体以下の感じ。
- あの世界における天才の前提条件は「見える」こと
- 滝脇の発言「伊緒は練習嫌いの華麗なる天才を装っている」は何を意味するか
- 同じく上の発言から、努力と天才の仕組みについて
1. かっとび世界における天才とは
まず、あの世界においてどういった人物が天才に該当するかについてですが、先にも述べた通りそれはおそらく「見える」人間です。
作中天才と称されるのは伊緒の他に、宗近暁がいます。(風飛びにおいては弟の真もその暁に並び立つセンスをもつという評価を得ている)。
彼らの共通点は上の「見えた!」という台詞に象徴される、精緻な目です。
どんな戦況でも神がかったシュートコースを計算する暁、どんなに強力なストライカーのシュートコースでも一瞬で見切る伊緒。(そして暁のシュートコースを唯一読める真。)
逆に言えば、暁、伊緒以外にも素晴らしい能力を持ったキャラクターは数多く登場しますが、その条件から外れているキャラクターは天才とは呼ばれません。
例えば、圧倒的なパワーをもつトルネードシュートや作中屈指の正確な足技で清雅を圧倒した甲斐邦彦さんは、天才とは呼ばれず「怪物」と称されます。
もちろんこのことから、どちらの呼称がプレイヤーとして上のものであるかを断定しようとする意図は、一切ありません。
とにかくここで言いたいのは、作中の世界観における天才の前提条件は「見える」こと、その神がかった視野は生まれつきの要因であること、何よりも伊緒はそうした目をもって生まれたということです。
ちなみにそんな途方もなくかっこいい甲斐さんは登場から随分と経っているにも関わらず人気投票では天才二人を差し置いてトップテン入りしていますね。やっぱ怪物のほうが上なんじゃ
2. 滝脇の語る里美伊緒の天才性
ここまでびっくりするほど滝脇に触れていませんが、滝脇はかなり伊緒の核心、ひいてはあの世界における天才の構図に触れているキーキャラなのではと思っています。
以下は、25巻内の回想から引用した中山兄弟と滝脇の会話です。
これ聞いた伊緒ちゃんはもう泣いて良いやろ。
これらの台詞の重要な点は、なんといっても「里美伊緒が天才であること」「その伊緒が血のにじむような努力をしていること」双方を同時に肯定しているという点だと思います。
引用した一つ目の台詞から、滝脇自身も伊緒のことを、会った瞬間からすでに天才と認識していたことがわかります。
それと同時に、次の引用台詞で滝脇は「伊緒は練習嫌いの華麗なる天才を装っている」と発言しています。この「装っている」のは何のことかもう少し見てみます。
前述の通り、滝脇は伊緒が天才であることを当然の事実として捉えています。よって装っていることの中に、天才であることは含まれていない。であれば、「装っている」が主に指しているのは天才以前の「練習嫌いの華麗なる」部分にあたると考えられます。
(滝脇は決して「伊緒は天才ではなく努力家」などと言っているわけではなく、あくまで「天才里美伊緒は努力している」ということを述べている。天才と努力の関係を、天才―努力家という二項対立の中で語っていない。のでは?的な意味です)
以上までの滝脇の発言をまとめると、「天才が生まれつき天才であること」と「天才は努力しないと天才でいられない」は矛盾しないというなんとも言えない結論に落ち着きます。
となると改めて天才って何なんだっけ?ってなる気がします。私はなりました。
なのでここからもう少し穿ってみました。
3. 点と点をつなぐ努力という線
・天才とは生まれつきである
・天才でいるためには努力がいる
・上二つは矛盾しない
これらが天才の条件と、滝脇の発言を整理して得られた命題です。
この三つが全て成り立つのは、おそらく「天才」という言葉の持つ意味が、ややこしいことに一つではないからです。事実、先ほど引用した会話に出てきた「天才」は、三つそれぞれにおいて全て異なるものを指していると考えられます。
ワンモア引用~~
「やつは本当の天才①だ… オレ達とはレベルがちがいすぎる……」
「伊緒は練習嫌いの華麗なる天才②を装っているが 天才③をとおすには人並み以上の努力が必要ってことだわな」
一つ目の「天才」は、「伊緒が生まれ持った才能」を。
二つ目は、「犠牲を払わず成立する天才という偶像」を。
三つ目は、「才能をもった者が多くのコストを払って得る結果」。
滝脇は一つ目と三つ目を肯定していますが、二つ目は否定しています。
①「伊緒が生まれながらの天才であること」、③「伊緒が天才としての結果を出し続けていること」は肯定している。でも、②「何の犠牲も払っていない」は否定している。
つまり天才とは「才能」と「結果」という二つの点から成り立っており、そしてその二点をつなぐのが努力という線。的な話なのではないか?と。(※ここでの「結果」という言葉は、勝敗や、パフォーマンス、才能の維持など広くを指しているつもりです。)
たぶん図にするとこんな感じの。
ペイント謹製 線ガッタガタ図
里美伊緒は天才たり得るために必要な一つ目の点である、才能ある目をもって生まれました。
そんな天賦の才をもって生まれた伊緒が、天才であるために必要な二つ目の点である「結果」が自分の内側では完結しないこと、そこにたどり着くために多くのコストが必要であることにも、時期はさておき気づいたはずです(1年のときから壁に向かい続けているという滝脇の台詞から)。
そしてそこにたどり着くために実際に伊緒は多くのコストをかけた。つまり血のにじむような努力をした。
そうした里美伊緒という天才を取り巻く構図に、滝脇は気づいていた。
よって、あのような若干複雑な言い回しとなったのではないか?という推察でした。
天才とはある瞬間だけに存在できるものではなく、幅をもった時間の上に成り立つということを知っている滝脇のような人間がいる限り、里美伊緒は正真正銘の天才としてあの世界に存在できるのかなと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。