【かっとび一斗】天才が天才でなくなる瞬間
こんにちは。令和の世にしてかっとび一斗に魂持っていかれた人です。
天才が天才でなくなってしまう瞬間を二大天才間で検討してみました。
かっとびの世界で天才と称された主なキャラクターは、宗近暁と里美伊緒ですが、その天才たる条件として必要なのは「見えた!」という台詞に象徴される精緻な目である、という話をこちら↓の記事内で語りました。
面白いことにあの世界で天才であるために必要なのは、足や手などの直接的な身体能力ではなく、目なんですね。
つまり天才が天才でなくなる瞬間というのは、「その神がかった目が曇ってしまったときである」という前提で以下進めていきます。天才というワードが氾濫してますね。
大体、こんな感じ。
- 伊緒が目を曇らせたとき:自家中毒
- 暁が目を曇らせたとき:他者への配慮
- 天才はいつ目が曇る?
まずは伊緒ちゃんこと里美伊緒から。
1. 自家中毒に陥る里美伊緒
里美伊緒の目が曇った瞬間といわれると私はここしか思い浮かばないんですよね。
2期外豪戦26巻166ページより。
個人的好きなシーンTOP5には絶対入れる自信があるほど大好きなシーン。血まみれる里美伊緒。かっこええ……! 目が曇ってそうですね(物理的に)。大変だ。でもかっこええ……!
そもそもこのシーンに至るまでに何があったかというと、
中山兄弟負傷→伊緒がゴールを空けて攻撃に移る→失敗→全力でゴールに戻る→カズマと接触でイエローカード→PKにおいて一斗のミスキックに翻弄されゴールポストに頭強打→大出血
なんですよね。
この一連のシーン自体がとても白熱していて大好きなんですが、里美伊緒が何を見ているかと言われると大部分自分のことなのではないでしょうか。中山兄弟を労いつつも「得点能力の欠けたお前たちにこれ以上試合を任せられるか」などと言ってたりするので、とりあえず「自分」が何とかしなくてはいけないとは思っている。
扉絵にてシュート撃とうとしてる伊緒ちゃんが一斗から「目立ちたがり屋のGK!」と言われていますが、あながち大間違いってわけではないのではないのかもしれません。
そして何より例の血まみれシーン、何で目が曇っているかって言われたら、見たらわかる通り伊緒自身の血です。自分で自分の目を曇らせている。自家中毒。
つまり伊緒の目が曇るときというのは、その神がかった目の焦点を自分に当ててしまったときなのではないか?
というところで次は暁の方を見ていきます。
2. 他者に気づいてしまう宗近暁
宗近暁と言うキャラクターは神がかった目をもつライバルとして、1巻から最終46巻までずっと清雅と対峙し続けました。そしてその目をストライカーとしても、チームを引っ張る主将としても遺憾なく発揮し続けたわけです。
そんな暁ですが、一度だけ明確に指示を間違えるシーンがあります。
「ゴールを直接狙ってくるぞ 謝花右だ!!」
「謝花逆だ!! 戻れーっ!!」
46巻最後の清雅FKのシーンより。
改めて見ると本当に思いっきり間違えていてびっくりしました。
とりあえずこうなった原因を推察していきます。このFKの直前、それまでの宗近暁には見られなかった行動がもう一つ見られました。それが次のシーンです。
「やむを得なかったさ… やらなければ負けていた…」
そもそも清雅側にFKの権利がわたった直接的な原因は、城之内です。イエローカードをとられた上、自分が足を削ってしまったカズマが担架でフィールドの外に運び出されるのを見て呆然とする城之内の表情からして、城之内本人にとってもそれが全肯定できる結果でなかったのは明らかです。
城之内の反則だけで話が完結しているのであればむしろ良かったのでは、と思うのですが、ここでは宗近暁がそうした城之内の心情を察して、しかもそれに対して行動を起こしてしまっているんですね。
こうして暁が他者の心情を察し、その人の心理に直接アプローチするという行動は、実はそれまでに一つもなされていません。ここが初出です。(たぶん)
そしてこの後のFKで、暁は初めてはっきりと指示を間違える。
つまり、宗近暁の目が曇るときというのは、その神がかった目の焦点を他者に当ててしまったときなのではないか? (※ここでの「他者」は敵を含まない)
というところでまとめに移ります。
3. まとめ
試しに二大天才比較してみたら長くなりそうだったのでとりあえず切り上げました。
なのでもろもろの理由根拠は割愛しますが、個人的にはもともと里美伊緒は他者志向的、宗近暁は自己志向的なライバルであると解釈しています。
あと風飛びを読んで一つ確信したのは、里美伊緒は一斗と戦ってる。宗近暁は自分と戦ってる。
— ゆり乃@かっとび一斗 (@ktb_yurino0920) 2020年10月3日
おそらく終始ライバルに徹してくれているのは里美伊緒の方。
だからこそどっちも好きなんだけど、ただただライバルとしての性質が違うんだと思う。
なんかちょうどいい自分のつぶやきがあったので載せておきました。書いてたんかーい。
風飛び一斗で二人が再登場した時、伊緒が必殺技をひっさげ一斗を認めて宣戦布告までしてくれたときに、一方の暁は例の雑誌を見るでもなく一人で筋トレしてたのがすごい象徴的だよなあ……っていう呟き…だったと思います。
先述した「目が曇ってしまったとき」の特徴に戻りますと、伊緒は自分に焦点を当てたとき、暁は他者に焦点を当ててしまったときです。
これはそれぞれの天才が普段見ているもの(見るべきもの)ではないものたちです。
つまり、両者とも「見るべきでないものを見てしまったとき」に目が曇ってしまう。
つまりつまり、ちょっと飛躍しますが「天才は自分のするべきことをしないと、天才ではなくなってしまう」のだと考えられます。
同じ天才という共通点を持っていても、敵を待ち構えるGKと、自ら突破口を開かねばならないストライカーで、目の働き(=その天才性)が描き分けられているのが改めて面白く感じられました。
暁と伊緒は二人とも「天才ライバル」として作中に君臨していますが、この二人には類似点も相違点もそれなりにあると感じるので比較するのがとても楽しいんですよね。
ちなみに「見える」こと以外の共通点はわりと上半身裸になりたがることだと思っています(暴言)。天才なので仕方がない。
最後までお読みいただきありがとうございました。
【かっとび一斗】滝脇の語る里美伊緒の天才性
こんにちは。令和の世にしてかっとび一斗に魂持っていかれた人です。
今回は滝脇と里美伊緒の天才性について語りたかったんです。
作品を読めばすぐさま、そして嫌というほどわかることですが里美伊緒は天才です。
ただその天才性については、意外と作中で多く語られていないような気もしなくもないような。ですが、そんな中で一番多くを語っているのはおそらく滝脇です。
ということで主に25巻で滝脇が語ってくれている里美伊緒観と、あの世界の天才の仕組みを紐解けたらと思います。
大体以下の感じ。
- あの世界における天才の前提条件は「見える」こと
- 滝脇の発言「伊緒は練習嫌いの華麗なる天才を装っている」は何を意味するか
- 同じく上の発言から、努力と天才の仕組みについて
1. かっとび世界における天才とは
まず、あの世界においてどういった人物が天才に該当するかについてですが、先にも述べた通りそれはおそらく「見える」人間です。
作中天才と称されるのは伊緒の他に、宗近暁がいます。(風飛びにおいては弟の真もその暁に並び立つセンスをもつという評価を得ている)。
彼らの共通点は上の「見えた!」という台詞に象徴される、精緻な目です。
どんな戦況でも神がかったシュートコースを計算する暁、どんなに強力なストライカーのシュートコースでも一瞬で見切る伊緒。(そして暁のシュートコースを唯一読める真。)
逆に言えば、暁、伊緒以外にも素晴らしい能力を持ったキャラクターは数多く登場しますが、その条件から外れているキャラクターは天才とは呼ばれません。
例えば、圧倒的なパワーをもつトルネードシュートや作中屈指の正確な足技で清雅を圧倒した甲斐邦彦さんは、天才とは呼ばれず「怪物」と称されます。
もちろんこのことから、どちらの呼称がプレイヤーとして上のものであるかを断定しようとする意図は、一切ありません。
とにかくここで言いたいのは、作中の世界観における天才の前提条件は「見える」こと、その神がかった視野は生まれつきの要因であること、何よりも伊緒はそうした目をもって生まれたということです。
ちなみにそんな途方もなくかっこいい甲斐さんは登場から随分と経っているにも関わらず人気投票では天才二人を差し置いてトップテン入りしていますね。やっぱ怪物のほうが上なんじゃ
2. 滝脇の語る里美伊緒の天才性
ここまでびっくりするほど滝脇に触れていませんが、滝脇はかなり伊緒の核心、ひいてはあの世界における天才の構図に触れているキーキャラなのではと思っています。
以下は、25巻内の回想から引用した中山兄弟と滝脇の会話です。
これ聞いた伊緒ちゃんはもう泣いて良いやろ。
これらの台詞の重要な点は、なんといっても「里美伊緒が天才であること」「その伊緒が血のにじむような努力をしていること」双方を同時に肯定しているという点だと思います。
引用した一つ目の台詞から、滝脇自身も伊緒のことを、会った瞬間からすでに天才と認識していたことがわかります。
それと同時に、次の引用台詞で滝脇は「伊緒は練習嫌いの華麗なる天才を装っている」と発言しています。この「装っている」のは何のことかもう少し見てみます。
前述の通り、滝脇は伊緒が天才であることを当然の事実として捉えています。よって装っていることの中に、天才であることは含まれていない。であれば、「装っている」が主に指しているのは天才以前の「練習嫌いの華麗なる」部分にあたると考えられます。
(滝脇は決して「伊緒は天才ではなく努力家」などと言っているわけではなく、あくまで「天才里美伊緒は努力している」ということを述べている。天才と努力の関係を、天才―努力家という二項対立の中で語っていない。のでは?的な意味です)
以上までの滝脇の発言をまとめると、「天才が生まれつき天才であること」と「天才は努力しないと天才でいられない」は矛盾しないというなんとも言えない結論に落ち着きます。
となると改めて天才って何なんだっけ?ってなる気がします。私はなりました。
なのでここからもう少し穿ってみました。
3. 点と点をつなぐ努力という線
・天才とは生まれつきである
・天才でいるためには努力がいる
・上二つは矛盾しない
これらが天才の条件と、滝脇の発言を整理して得られた命題です。
この三つが全て成り立つのは、おそらく「天才」という言葉の持つ意味が、ややこしいことに一つではないからです。事実、先ほど引用した会話に出てきた「天才」は、三つそれぞれにおいて全て異なるものを指していると考えられます。
ワンモア引用~~
「やつは本当の天才①だ… オレ達とはレベルがちがいすぎる……」
「伊緒は練習嫌いの華麗なる天才②を装っているが 天才③をとおすには人並み以上の努力が必要ってことだわな」
一つ目の「天才」は、「伊緒が生まれ持った才能」を。
二つ目は、「犠牲を払わず成立する天才という偶像」を。
三つ目は、「才能をもった者が多くのコストを払って得る結果」。
滝脇は一つ目と三つ目を肯定していますが、二つ目は否定しています。
①「伊緒が生まれながらの天才であること」、③「伊緒が天才としての結果を出し続けていること」は肯定している。でも、②「何の犠牲も払っていない」は否定している。
つまり天才とは「才能」と「結果」という二つの点から成り立っており、そしてその二点をつなぐのが努力という線。的な話なのではないか?と。(※ここでの「結果」という言葉は、勝敗や、パフォーマンス、才能の維持など広くを指しているつもりです。)
たぶん図にするとこんな感じの。
ペイント謹製 線ガッタガタ図
里美伊緒は天才たり得るために必要な一つ目の点である、才能ある目をもって生まれました。
そんな天賦の才をもって生まれた伊緒が、天才であるために必要な二つ目の点である「結果」が自分の内側では完結しないこと、そこにたどり着くために多くのコストが必要であることにも、時期はさておき気づいたはずです(1年のときから壁に向かい続けているという滝脇の台詞から)。
そしてそこにたどり着くために実際に伊緒は多くのコストをかけた。つまり血のにじむような努力をした。
そうした里美伊緒という天才を取り巻く構図に、滝脇は気づいていた。
よって、あのような若干複雑な言い回しとなったのではないか?という推察でした。
天才とはある瞬間だけに存在できるものではなく、幅をもった時間の上に成り立つということを知っている滝脇のような人間がいる限り、里美伊緒は正真正銘の天才としてあの世界に存在できるのかなと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
【かっとび一斗】北条の理想と、潔癖症という鎧
令和の世にしてかっとび一斗に魂持っていかれた人です。
今日は推しの一人である大阪・四方寺中の白鷺こと北条権之介くんという素晴らしいキャラについて語りたいと思います。
ま、眩しい……!なんという眩しさだ……!!
テーマは北条の潔癖症と現実と理想です。
四方寺中記事かもしれません。
だいたい以下の感じ。
- 北条は潔癖症であるが、その対象はおそらく菌や泥ではなく人
- 北条のもつ理想と、その理想と相容れない現実
- 試合の最後に北条はどちらをとったか
- 北条が人に対して潔癖である理由を推察してみる
以下順を追って見ていきます。
1. 北条の潔癖について
さてこの四方寺中の天使こと北条ですが、潔癖症であるという公式設定があります。
主将である溝口の口から明言されているのでそこは間違いないと思います。
「あれは潔癖症なもんでむずかしいんですわ」(28巻72ページ)
いきなり清雅との練習試合が決まった上、他のチームメイトが持参していたジャージも持っていなかった北条はパジャマで試合に臨む羽目になる。それを気遣ってマコトがうちのをお貸ししましょうか?的なことを言って、でもそれを溝口が断るんですよね。それが上のシーン。
ここまでなら、まあそういうもんかなぁって感じなんですが、この練習試合中に「ん?」となることが起こります。
それがこちら。
北条、パジャマが汚れるのは案外平気なのではないか?という。
というよりたぶん最初からそうなんですよね。
ジャージの貸し出しを断った時点で、北条の中では「パジャマが汚れること」よりも「他人のジャージを着ること」の方が無理レベルが高い。
ここから、北条の潔癖の対象は、おそらく菌ではなく人ということが言えます。
2. 北条と理想主義
この四方寺中のフェアリーエンジェルこと北条ですが、前述の潔癖症しかり、初登場回からだいぶ強めのインパクトを残したキャラなのではないかと思います。そしてそれ以外にもなかなか強火の設定が存在します。
・大阪生まれ大阪育ち+コテコテの関西チーム
・…で標準語を使う
・枕が変わると眠れない
・麗しめな見た目に対して下の名前が「権之介」
・自称「フィールドの貴公子」
・「白鷺の舞」という謎技を披露してくれる(プレースタイルが独特)
・バイオレンスサッカーギャグマンガで「暴力反対!」という名台詞を吐く
濃い。
たぶん一斗史上もっとも他チームから「なんだアイツ…」されたキャラだと思います。(実際カズマが発している台詞)
ただこの設定群をひとつひとつ見ていくと、そこにはわりと共通性があるのではないか?と思っています。
北条ってわりと、理想とするものに対して、それとは相容れない現実がセットになってるんですよね。言い換えると、結局生まれ持ったものに抗えていない。
・ドラマに憧れて標準語を使う→でも気を抜いたときに出るのは大阪弁
・枕のことは指摘されてキレる→異質であるという自覚はある(が直せない)
・身なりや振る舞いや自称は変えられても、自分では変えられない名前を憂う
以上のように、北条は彼独自の理想をもちながら、同時にそれとは相いれない現実や性質が描写されているキャラなのだと捉えられます。
しかし、その北条が不条理な現実に対し理想を貫き通した場面があります。
それが全国大会における試合のラストです。
先に結論を言いますと「四方寺中戦のラストは、北条が現実的な正答を叩き折って自分の理想をとって負けたラストなのではないか」と考えています。
3. 溝口という現実、北条という理想
わかりきったことですが四方寺中の主将である溝口と、北条のプレースタイルは対極にありますよね。
そしておそらく、プレーする目的自体も違う。
溝口が求めているのは言わずもがな勝利ですが、北条の求めているものは華麗さです。
溝口はご存知驚異のバイオレンス主将であり、勝つためなら少々際どいことでも平気でやってのけます。(でもそれは自分勝手の表れではないと思っていて ※後述)
一方の北条ですが、「なんて華麗なアシストなんでしょう」「見よ!華麗な白鷺の舞を!」「(溝口が退場になった試合を指して)勝っても最悪な気分だし…二度とごめんだな あんな試合」等々、勝利や力よりも、彼なりの美や規律を重んじていることがわかる台詞が散見されます。
そうした二人の価値観がぶつかったシーンがこちらです。
清雅に対して度を超えたラフプレーを行い、イエローカードまでとられた溝口に、北条が(正気に戻すために)水をぶっかけて抗議したシーン。
そして何だかんだと言い合ったのち、溝口は抗議してきた北条に対して「おのれは勝ちとうないんか?」と反論します。そしてその言葉に北条は黙り込むんですね。反論しない。
ダメなもんはダメでしょうが!!くらい言ってキレ返してもいい気がするんですが北条はそうは言わない。つまり、少なくともその時点の北条は、規律より勝利を重んじる溝口の言葉を正論として捉えている。そして大切なのは、北条自身には勝つことよりも重要としているものがあるという事実。
そんな理想を重んじる北条が唯一、勝利に対しての欲求を露わにしたのが四方寺戦のラストです。
「このままでは負ける 負ける 負ける」「いやだ勝ちたい」
失神したGKの代わりに北条が自分の手でボールを叩き落とそうとするシーンです。これって本来なら溝口がやるようなことですよね。でも溝口もいない、GKもいない、勝つためには反則を犯して自分がやるしかない。そうなった北条は上のセリフを叫びながらボールを叩き落そうとする。つまり、理想主義であるはずの北条が、溝口に諭された後に現実主義に揺らいでいる。
でも、結果として北条は手を降ろして負ける。
これを良心の呵責の結果、とすることは決して間違いではないとは思う(というより確実にそれもあると思う)のですが、先述の通り、北条自身は勝利に執着して規律を軽んじる溝口のことは完全には否定していない訳で。
さらに言えば負けた直後、「ごめん………手を使えなかった………」と謝る北条に対してタマが開口一番に言ったセリフは「なに溝口みたいなことゆうとんのや 北条はんらしくおまへんで」なんですね。
タマが言及していることは負けたことでもなく、反則を犯そうとしたことでもなく、「北条らしくない」という一点。
よって四方寺中戦のラストは、北条が現実主義溝口の正答よりも、自身の理想をとり負けた、と捉えることも可能なのではないでしょうか。
4. 北条の潔癖が持つ意味
長くなりましたが、ここで潔癖症の話に戻ります。ここから先は特に推察の域になりますが。
1で述べた通り、北条の潔癖は人を対象としたものです。ではどうして北条は他者に対して潔癖なのでしょう。
それは、潔癖症が北条の内側にある脆い理想を守るための鎧という機能を果たしているからではないでしょうか。
最初に述べた通り北条が非常に個性的で自由なキャラクターであることは確かです。しかし彼自身のもつ理想が、現実という要素と合わせて考えると、実はかなり脆いものであることも、確かなことだと考えられます。試合の最後になってやっと自分の理想を貫き通し、その結果を肯定できたんですから。北条がふと口走った「神様はなんていじわるなんだろう」という台詞はわりかし北条の核心に近いのではとすら思います。
溝口が北条を諭しているこのシーンって、現実主義の溝口が正論を盾に理想主義の北条を抑え込む、というかなり象徴的なシーンだと思うのですげえ好きです。他チーム自チームから北条への反応を見るに、おそらくこんなことが北条の人生において何回も起きている。
そうした悪意の有無を問わず行われる他者の干渉から、理想を守るために生じたのが潔癖症なのではないか?というのが一個人の解釈です。
ちなみに北条と相対する価値観をもつ人物として語ってきた溝口ですが、私は溝口のことも大好きです。溝口の現実主義は自分勝手でも自己中心的なものでもないと思うからです。
上のように、溝口の根底にあるのは「お前ら(チームメイト)を勝たせてやる」「日本一にしてやる」という強い思いです。「日本一にしたる」「わしら」と、溝口一人が勝とうとしているのではなく、あくまでチームに勝たせたい。
一方北条の理想が誰のためにあるかと言われたら、それは北条自身のためです。それでも、他の四方寺の面々は溝口や北条が自分らしくいられることを最重要視している(「反則で勝っても溝口しか喜ばねえ」的なことは言いつつ溝口の否定はしていない)。
四方寺中は和を重視しつつも個を尊重する、それを描き切ってくれた四方寺のラストは素敵だなあと思っています。
そしてそんな感動的なラストの後、北条は……
チームメイトのためという思いをもった溝口はすぐには立ち直れず、自分の理想に生きた北条は驚きの回復力を見せる。
深いですねぇ(やけくそ)
とりあえず私は利他主義のバイオレンス主将こと溝口が早々に立ち直ってくれることと、四方寺の恵まれた異分子こと北条が北条らしくいられることを祈るばかりです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
かっとび一斗のやばいとこ
せっかくアクセスしていただいたのにすみません、最近読み返したらなんかなーって感じだったので一旦引っ込めています~~!
他のはそのままなのでもし良ければ見ていっていただけたら嬉しいです~~
ゆり乃
【かっとび一斗最終回】宗近暁は敗北の末に何を見たか?
(※以前別のサイトに載せていたものと大体同じです。)
《はじめに》
こんにちは。令和の世にして「かっとび一斗」に魂持っていかれた人こと ゆり乃です。上のは一回こういうの作ってみたかったやつです。
かっとび一斗ってすごいですよね。サッカーしてるか乱闘しているかサッカーが乱闘かのどれかなのにすごい面白いですよね。大好きです。
今回は表題にある通り、魂持ってかれた最大の元凶原因でもある最終話に関して書いていきたいと思います。
作中に登場する最大のライバル・宗近アキラという素敵なキャラクターがいますね。彼は作中最初期から登場し、後半になるにつれて嵩永推しの自分ですら「あ?」となるくらいの変貌を遂げたキャラクターです。しかし最終回まで読んで、彼に関する一連の描写に納得のいく解釈を得た結果号泣したので、それについて述べます。簡潔にまとめると以下の通りです。
- 2期嵩永戦前から試合中にかけて、宗近アキラに関する3つの問いがほのめかされた
- その答えは、最終話でも明確な言葉として示されることはなかった
- しかしその答えは最終話における台詞のない1コマで提示されている
以下、「宗近アキラに関する問いとは何か?」「ラスト1コマで示されたその答えとは?」「答えの先に何があるのか?」について順を追ってなんとかします。
《1. 宗近アキラに関する三つの問い》
まずは作中で提示された3つの問いを時系列に沿って確認していきます。
《1-1 宗近アキラに関する問い①(40巻p.64)》
1つ目がこちらのシーンです。このシーンは平木がかつての仲間・清雅学園にライバルとして再び対峙し、敗れた直後、準決勝前の嵩永学園と鉢合わせをした時のものです。このコマの直前のシーンにて、敗北した平木に「残念だったな」と発言したアキラに対して、平木はこう返します。
「なあーに試合だ 負けることもあるさ」
「お前さんも一度ぐらい負けてみるのもいいかも知れんぜ
勝ちっぱなしじゃあみえねえ世界がみえてくる」
これに対し我らが宗近アキラは「はあ?」みたいなテンションでいろいろ言うわけですが、そのあたりはとりあえず原典を見ていただければと思います。
ここで重要なのは、この後のアキラの敗北が話の展開上確実であったこと。そして何よりも、平木の言う「勝ちっぱなしでは見えない世界」とは宗近アキラにとってはどんなものであるか?という問いがほのめかされたことです。
《1-2 宗近アキラに関する問い②(42巻p.51)》
2つ目がこちらの清雅vs嵩永の前半戦におけるシーン。清雅にまさかの先取点を許した嵩永学園は何とかフリーキックの機会を得ます。しかしそのフリーキックのさなか、清雅のGKで双子の弟でもあるマコトが至近距離にいたにも関わらず、アキラは得点をあげるため、やむを得ずそのままボールを全力で蹴りつけるというプレーをしました。マコトはその衝撃に顔面から蹴り倒されます。そしてその後、倒れたまま立ち上がれないマコトに背を向けるアキラが、駆け寄るカズマと目があった末に自問自答したのが上のシーンです。彼は以下のように胸中で自問自答します。
「変わってしまったのはオレだけなのか…」
フリーキックの直前には、小学生だった宗近兄弟の回想シーンが挟まれていました。マコトを殴った中学生を怒りのあまりアキラが殴り返したのはいいものの、返り討ちにあいボコボコにされる。しかし自分のケガには構わず、アキラは兄として、泣いているマコトを励ましたという尊いオブ尊い回想シーンです。
自問自答の中でアキラは、自身が「変わってしまった」ことを決定事項としています。しかしアキラは本当に変わってしまったのでしょうか? 変わったとしたら、何が変わったのでしょうか?
《1-3 宗近アキラに関する問い③(44巻p.18)》
最後はこちらのシーンから。試合の後半も後半、同点に並んできた清雅に対し総攻撃を仕掛けている最中のアキラの独白です。
「ここで負けたら何のためにお前(※カズマ)や弟のマコトと別れ」
「名門嵩永でサッカーにうちこんだこの3年間の意味がなくなってしまう」
ここ作者さん疲れてたのか文法的にちょっとあれな気がするので言い換えます。要は「誰よりも強くなるために親友のカズマや弟のマコトと別れて名門嵩永へ行きサッカーに打ち込んだのにも関わらず、別れた相手に負けてしまったらなぜ自分が一人で嵩永に行ったのか、その意味がわからなくなってしまう」ということですね。文法大丈夫?
自身が嵩永に行った意味についてアキラが言及するシーンはいくつかありますが、一番「問い」感のあったこちらのシーンを取り上げました。
本記事ではシンプルに「宗近アキラが一人で嵩永に行った意味とは何だったのか?」について考えてみます。
《2.最終話の一コマで提示された各問いに対する答え》
ここでもう一度、作中で提示された問い的なやつについて整理します。
- 宗近アキラが敗北の末に見た世界とは何か?
- 宗近アキラは変わったのか? 何が変わったのか?
- 宗近アキラが一人で嵩永に行った意味とは?
以下、ラストシーンとそこで示された答えについて述べていきます。
《2-1 宗近アキラが初めて見た世界 ー視線の移動より》
延長戦の末、清雅に敗北を喫したアキラは試合終了後、カズマに対し「おめでとう」と祝福しながら握手を交わします。そしてマコトに対して「ナイスキーパーだったぞ」と笑顔で言いながら、背中を向けた瞬間には、悔しさのあまり拳を握りしめます。
その後すぐ、「宗近アキラが敗北の末に見た世界とは何か?」という問いに物理的に答えを出したラストシーンが46巻最終話、p.102からp.103、特に最後の1コマです。
宗近アキラが何を見たか?
「痛みを共有できる相手」です。
それは一人で頂点に居続けたときには絶対に見ることのなかった、むしろできなかったものでした。以下、詳しく見ていきます。
最終戦から前に起きていたことを振り返ると、宗近アキラが誰かと痛みや苦しみを共有する場面は一度として描かれていないのです。共有できないのです。なぜならそれまで宗近アキラただ一人が作中の頂点に君臨する存在だったからです。
そのことに言及しているのが先ほども述べた40巻の大船浦と嵩永が会った直後、アキラに対する大船浦の日尾野と操谷の発言です。
「いやな野郎だ 自分が頂上(てっぺん)だと信じてやがる」
「仕方ねえわな 嵩永が負けねえ限り
やはりあいつが頂上(てっぺん)だ」
注目すべきなのは、どちらも「自分」「あいつ」と宗近アキラのみを指しており、「自分ら」「あいつら」などとは言っていない点です。つまりこのシーン時点で頂点にいたチームは嵩永学園であり、その中の頂点が宗近アキラです。
そして1期時点から嵩永のナンバー2的な存在として描かれた城之内ですが、城之内はアキラと同学年であるにも関わらずアキラを「主将」と呼んだり敬語で話したりと、その立場は決して対等ではありません。以上のことから、実力的にも立場的にもアキラに並び立つ人間が存在していなかったことがわかります。
そしてこの城之内は、宗近アキラを語る上ではわりとキーパーソンとなる人間だと個人的に思うんですが、その理由の一つが「宗近アキラの苦悩については一番(唯一?)正答に近い認識を持っているにも関わらず、様々な理由から何もできない」という稀有な立場を形成しているからですね。そうした関係性を象徴しているシーンがいくつかあります。
ここで取り上げたのは、1期嵩永戦において左鎖骨に大けがを負っているのにも構わず、煮え切らないプレーをするカズマに左肩からぶつかり、ついに流血に至るまでケガが悪化した直後のシーン(14巻p.137)。1期嵩永戦後にアキラが倒れたシーン(15巻p.184)。そして、清雅が決勝進出を決めた後の準決勝にて、いつもの様子とは異なる「強引な」プレーをするアキラに対して城之内がその心情を察するシーンです(40巻p.91)。
これらの共通点は「城之内がアキラの背中側を見ていること」、そして「城之内はアキラの苦悩に対しては直接的な行動を起こせないこと」です。
しかしそれが最終話においてだけは逆になります。
最終話で描かれたラストシーンにおいては、宗近アキラの方が泣き崩れる城之内の背中を見て、そして手を伸ばすのです。
先述の通り、他のチームとは違い嵩永の中には同学年にあっても強さに応じた明確なヒエラルキーが存在します。そしてその頂点にいるのは宗近アキラ、ただ一人だけです。勝利するためには宗近アキラを先頭にした流れに、城之内を始めとした他の人間がついていくのが嵩永の基本的なスタイルです。特に顕著なのは1期にて、大けがをしている宗近アキラを庇って城之内が退場したという出来事。宗近アキラを含め、誰もこの選択を責めなかったのは、勝つためにはそれが最善だったというのが嵩永の総意だからではないでしょうか。
城之内はチームの中でも一番、勝つためには宗近アキラが何を見ているかを把握し、その背中についていくことが最善だと知っている人間です。そして先ほど挙げたシーンや、1期における「主将ならだれにポイントを置くんだ」「おれじゃ主将のかわりはつとまらねえんだ」などの台詞に表れているように、決して自分は宗近アキラと同じことができないし対等ではないことを知っています。だからこそ、城之内は主将であるアキラの見ているものを見ようとする、そしてそれに後ろから従うというルールを多くの場面でひたすら守り続けたわけです。しかしそんな城之内は、ラストシーンにおいては主将である宗近アキラがどれほど強く悔しがっていようがそちらを向くことはありませんでした。負けたからです。向く意味がないですよね。まして並び立つことはしませんし、そもそもできません。今までがそうであったように。
相手の方を向くこと、そして相手に並び立つことに対しての意味と選択権があったとすればアキラの方です。
宗近アキラが今までそれらをしなかったのは根本的にできないからではなく、後ろにいる人間を振り返ったら負けるからです。何度も述べているように、嵩永が勝者であり続けるためには宗近アキラが先頭に立ち常に前を見なければならない。見るべきは後ろにいる味方ではなく前にいる敵、だから痛みや苦悩も共有することができないし、そもそも同じ痛みをもった人間がいなかった。でもラストシーンではそれら全ての制約が外れます。負けたからです。負けたからこそ他者と自分の心に「同じ痛み」が生じ、それを共有することのできる人間の方をアキラは向くことができたのです。
宗近アキラは敗北したからこそ、今まで自分と同じ方向を後ろから見続けてきた城之内という人間の背中を見ることが、そしてそこに並び立ち、手を伸ばすことができたのではないでしょうか。そしてその相手は、同じ痛みを共有できる人間という、宗近アキラにとって初めて見ることが叶った人間だったのではないでしょうか。
それらすべてを含めて、「宗近アキラが敗北して初めて見ることのできた世界」と呼べるのではないかと思います。
《2-2 変わらないこと、変わったこと ―同じ構図を持つ二つのシーンの異同》
次に二つ目の問い「宗近アキラは変わったのか? 何が変わったのか?」について見ていきたいと思います。ここではラストシーンを含む以下の二つのシーンの異同について見てみます。
上のシーンは1-2でも述べた、幼いころの回想シーンにて、マコトを殴った中学生に挑むも殴り返されたアキラが、ボロボロになりながらそれでも兄として傷ついたマコトを励ましたシーンです。
この二つをただ見るだけでも、宗近アキラが根本まで変わることができなかったのは一目瞭然かと思います。しかしもう少し詳しく見てみます。
まず宗近アキラから見たときに、マコトと城之内はかなり大きな共通点を持っています。マコトも城之内も、アキラにとって「暗黙の上下関係の中で下の立場にある人間」なんですね。マコトとアキラは兄弟ですが、彼らは一卵性の双子です。同じく一卵性双生児である外豪の中山兄弟は互いに「右近」「左近」呼びをしておりそこに上下関係はありませんが、マコトはアキラを「兄さん」と呼び、上の立場の人間として認識しています。城之内が同学年でありながらアキラと対等でないというのは2-1で述べた通りです。
回想の中におけるケガの程度を見るに、より傷ついているのはマコトではなくアキラの方です。そして最終戦においても、負けてはならない理由をより多く持っていたのはおそらく城之内ではなくアキラの方です。
さらに加えて言うなれば、この二つのシーンはどちらとも敗北を喫した後のシーンであるという共通点があります。
以上のことから、この両シーンはかなり似た構図で描かれていると捉えていいかと思います。
二つのシーンを見るに、宗近アキラは変わりきることはできなかったわけです。自分の近くにいる目下の人間が傷ついているとあれば、何かをしようと思う人間のままだった。たとえ自分の方が深く傷ついていたとしてもです。
そしてこの二つのシーン間で異なることと言えば、見ればわかることですがアキラの手の位置です。マコトには背中、城之内に対しては手です。マコトの時点では上の立場の人間として励ます(=痛みを慰めている)、城之内に対してはむしろもう少し対等の位置に並び立とうとしている(=痛みの共有)、とするのが無難かなという気がします。しかし、ラストシーンにおいて宗近アキラが城之内に対して「何をしようとしているか?」はかなり不透明かなと思っています。ただその一点こそがこのラストシーンをラストシーンたらしめる理由の一端だとも思っています(後述)。
ちなみに「宗近アキラは何が変化したか?」については他にも面白いなあと感じる描写があったのですが、そういえばラストシーンという本筋からちょっと離れてました。なので割愛します。まことにごめんなさい。
《2-3 選びとったもの ー未来と過去と回帰》
そして最後に、「宗近アキラが一人で嵩永に行った意味とは?」について触れてみたいと思います。
宗近アキラは最終戦前から最中にかけてたびたび、自身の過去の決断とその意味について振り返ります。(嵩永に対しての起点が今ではなく過去にあるので、嵩永に「来た」というより「行った」に近いのかなと。)そして延長戦の後半に差し掛かる陣地交換の際には、すれ違うカズマに対して「いいチームだな…」と呟きます。嵩永に行くと決めた時には、カズマとマコトが未来を見据えたアキラの背中を見ていたのに対し、最後に近づくにつれてアキラの方が過去の選択を振り返っているんですね。
アキラは本来、「清雅に行かなかった」人間なのではなく、「嵩永に行く」と決めた人間だったはずです。最終戦においては「自分のした選択が正しかったことを証明するため」に戦っていたアキラですが、それは「誰よりも強くなりたい」という当初の目的からは逸脱したものです。カズマとマコトと別れたのは確かかもしれませんが、新たに得た仲間たちがいたはずです。でもアキラがそちらに言及したことはあまりない。プレイヤーとして以外ではほぼ皆無。
しかし最後の最後に清雅の二人に背を向け、同じ痛みを持った人間へと近づいたラストシーンは、自分がかつて未来を見据えて下した選択の結果選び取った過去=嵩永というチームへの回帰だったのではないでしょうか。そしてその瞬間にたどり着くために、宗近暁は嵩永へと「来た」のではないでしょうか。敗北の先に見た世界やそこに見出した意味は、宗近暁というひとりの人間にとっては悪いことばかりではなかったのではないかと。
敗北した嵩永の背中を見つめるカズマとマコトは、かつてアキラが嵩永に行くと決めたときのように、再び自分たちとは違う道を進みだしたアキラを見ていることの表れでもあるのかと思います。
《3.答えの後に》
Q. それでは宗近アキラがたどり着いた答えの先には、何があるのでしょうか。
A. わかりません。
それこそがこのラストシーンをラストシーンたらしめる理由だと思います。
最後の最後、アキラの手は城之内に伸ばされたわけですが、結局のところ「これ具体的に何しようとしてるの?」に関してはかなり不透明です。さらに言えば、「宗近アキラが他者に働きかけた結果、その相手(=城之内)はどうするのか?」という一点だけは決して明かされることはない、というのがこのラストシーンでは最重要だと思っています。(続編がありますがここで言いたいのは次の瞬間の話です)
嵩永に来てからおそらく初めてひとりの人間として他者に向き合おうとした宗近アキラと、その相手である城之内が描かれたのを最後に(彼らの)物語の幕が引かれるので、アキラからゆだねられた選択権を果たして城之内がどうするのか? そしてその結果何が起こるのか? ということは唯一読者側の想像にかかっているのが、このラストシーンは非常に美しいラストシーンだなあと思った最大の由縁です。ラストシーンであっても、そこから続いていくだろう今までとは違った「何か」がわずかにほのめかされているところ。
宗近暁は最後の試合中に、未来を見据えて下したかつての選択を何度も何度も振り返った結果、「意味がなくなる」とまで言い切った敗北を喫した先に、自らがした過去の選択に再び立ち返る。そしてその選択の結果出会った他者に気づくと共に、その他者に向き合い、かつて別れた友とは別の未来に再び進もうとしている。けれどその次の瞬間に何が起こるかは決して読者側には分からない。だからこそ未来である。
とても美しいラストシーンだと思いました。泣くわこんなん。
《おわりに》
ここまで読んでいただいた猛者の方いらっしゃいましたら本当に、心から感謝いたします。正気ですか?とっても嬉しいです。
最後に言いたいのは、当たり前ですが今まで書いてきたのは考察と言いつつあくまで「私自身の解釈」でしかないということです。正解がないところが大好きなので。
あと言いたいことがあるとすれば「猛者ついでにかっとび一斗のKindle化リクエストいかがですか?」ということだけです。
改めて、閲覧どうもありがとうございました!